こんにちは。Sound Escapeのranaです。
以前はアメリカ人のラッパーさんに楽曲提供などをし、現在はフリー音源サイトのSound Escapeというサイトを運営しています。
アメリカ人との仕事は大きなものだと大手チャートのビルボードなどにも乗ったことがありました。
今回は簡単ではありますが、私について、書いてみたいと思います。
一部フリーサイトとかぶるところもあるかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。
生まれた頃
ドラゴンクエスト1の発売日をちょっと過ぎた頃に長野県の松本市で生まれました。
大きな農家の次男として生まれ、内向的な少年だったのだろうなと思います。
兄がねだったのかは不明ですが、ほどなくして我が家にはツインファミコンがありました。ファミコンの一種でディスクシステムが遊べるタイプのファミコンです。
そこからゲームに夢中になりました。
幸せだった小学生時代
小学生の時は、いわゆる神童のような生き方をしていました。
当時は公文式を習っていたのですが、小学五年生の時に既に高校範囲の因数分解を解いていたりしました。
中学一年生の時に英検3級をパスしていたので、ほとんど入学時に範囲は終えていたような状態だったようです。
時はファミコンからスーパーファミコンの時代になりました。
私はFINAL FANTASY VIに夢中になりました。
特に好きだったのが、世界が崩壊した後、飛空挺を手に入れると流れる「仲間を求めて」という曲。
「こんな曲が書けるようになりたい!」
そんなことを思っていました。
3つ下に妹がいたのですが、先に妹がピアノを習っており、私にもピアノを習うチャンスがあったため、習い始めました。
廃人のような中学生時代
私も多感な時期に突入していましたが、この頃からやや様子がおかしくなりはじめます。
学校での成績はまぁまぁ悪くないほうで、部活は吹奏楽部に所属していました。
問題は家庭でのこと。
家庭での持続的なストレスもあり、どんどん体調が悪化していっていました。
当時の自分が変調に気づくわけもないので、「何かおかしいなぁ。私だけなのかな?」と思っていました。
中学三年生の時などは吹奏楽がきっかけで彼女ができたりもして、それなりだったと思うんですが、体が動かず、何もできない時期というのがありました。
通っていた公文式の先生にも随分と迷惑をかけたのを覚えています。
生徒会の委員長などもやっていて、多忙でした。勉強するモチベーションも時間も取れなかったのを思い出します。
結果として、高校受験に失敗し、2週間の何も今後のことが決まらない時期というのが訪れました。
その時期はただただ、起きてご飯を食べてゲームして、頭が痛くなって寝るみたいな感じの廃人のような生活を送っていましたね。
下克上の高校生活
地域の一番頭のいい進学校には落ちたのですが、二次の書類審査でなんとか地域の二番目に頭の良い学校に入ることができて、そこから下克上の日々がはじまりました。
勉強は毎日3時間。それに加えて部活も吹奏楽部に所属していたため、なかなかにハードが日々だったように思います。
1年生の頃ははじめはとてもしんどかったですが、成績上位によく入っていたので、そこに名前が出るようなことも嬉しかったです。
部活でも、1年生の夏の吹奏楽コンクールでスネアのソロを任され、見事打楽器の審査員の先生に「very good」をいただいて、成果を残すことができました。
2年生の先輩が引退した頃あたりから、プレッシャーもあり学校にいけなくなり、3年生の春に不登校を経験しました。
その時はよく一青窈の一青想を聞いていたなと思い出します。
その頃から精神科に通うようになりました。
部活の部室の一角に男部屋というのがありましたが、そこで部活の仲間に泣きながらはなしを聞いてもらい、なんとかリカバーして部活にも復帰。学校に通えるようになりました。
今思うと、部活をやっていなかったら学校はやめていただろうなと思います。
3年生はその後も順調に過ごすことができて、大学は東京の上智大学の心理学科に通うことになりました。
上京、そして病気との出会い
大学生になり、東京に引っ越すことになりました。
当時は小岩に住んでいたので、小岩から四ツ谷まで中央総武線で通っていました。
都会の電車には慣れず、一限の時間が好きな先生が多かったこともあり、よく満員電車に乗っていました。
これがカルチャーショックでしたね。すごい人で。
よく電車を一本待って乗っていたなぁと思い出します。
小岩から電車に乗られる方はわかると思いますが、通学定期券内に秋葉原が入ったことがきっかけで、よく秋葉原に帰るようになりました。
よく遊びに行ったのが秋葉原の電気街口です。
オタクショップが目当てで、当時はスマフォもなかったので、足を使っていろいろと調べて回りました。
ふと入ったCDショップで500円でCDが売られていて、「これはなんだろう?」と思いました。
どうやら同人音楽というものがあるらしい、というのを知ったのはその後のこと。
これは自分の人生の中でも大きな発見でした。
一般の大学に進学してしまった自分にはもう音楽の道はないのかなと思っていたので、活動を考え直すきっかけになりましたね。
そんな中、20歳の時に統合失調症の陽性症状が出てしまい、地元に帰って入院をしていました。半年後にはすぐに出て学校に復帰していましたが、その後も体調が悪いことが多かったなと思います。
復帰して、東京に戻り、サークルに入ろうかなと考えていた時に、地元の絵のうまかった子が千葉大学に通っていたので、その子のおすすめで、千葉大学のサウンドクリエイト研究会に準会員として所属することになりました。
たまたま家の帰る方向が同じだった同期と現在のフリー音源サイトの前身にあたる同人サークル「Sound Escape」を立ち上げてコミケなどに出ていました。
その後もコミケや同人即売会を中心に活動をしていって、コミケでは壁絵師のベテランの先生のお手伝いなどもしたりしていました。
ただ、何事もデッドラインというものがありますね。
大学の場合で言えば、大学は8年までいられるというのがあります。
私は体調が悪いこともあって、大学に関しては授業には出たり出れなかったりでよく単位を落としていました。
ギリギリの大学7年生の秋、ここで決めないといけないというタイミングで上智大学の先生に「きちんと卒業したいなら退学も視野に入れると良い」と言われたこともあって、退学を決意しました。
退学をするちょっと前に、日本のライブハウスでアメリカ人のラッパーさんとの出会いがあり、もう海外とのコネで仕事ももらっていたので、あまり迷いはありませんでしたね。
舞台は再び地元へ
大学を退学したこともあって数年後に地元に帰りました。
その時は認知症の祖母の介護などもあり、結構大変でした。
TEDxのボランティアなどを通じて友人が増えたりしていましたね。
しばらくはアメリカ人との仕事に専念し、ファミコン音楽を書いていました。
その取り組みも落ち着いてきた頃に、どうやって生活を成り立たせていこうかなと考えていましたがオーディオストックのもっぴーさうんどさんの記事が目に入って、なるほど、フローの仕事以外にもストックの仕事があるんだなと勉強になりました。
私のオーディオストックはやってはみたんですが、曖昧が審査があることや、いろいろなことが重なって自分にはあっていないと判断しました。
2020年にコロナショックがあり、そこがきっかけでフリー音源サイトSound Escapeを立ち上げました。
いまはそのサイトを母艦にして、ストックの仕事を中心にこなして生活しています。
浮き沈みの激しい人生ですが、何もないよりは楽しいのかななんて思ったり。
もうちょっと今の生活を続けてみようかななんて思ってます。
ここまでお読みいただいてありがとうございました。